しかし、「人はなぜ論理的に物事を考えられないのか」
と考えた時に論理的とは何か定義に帰るべきでしょう。
論理学によると、論理的とは「「判断・主張」と「理由」が繋がっている」状態を指します。
言い換えると、論理的であるとは「なぜ」と「なぜならば」が妥当であることです。
よって、論理的に考えるためには根本的に「なぜ」と考えることが不可欠です。
「なぜ」と思うためには、理由を知りたいという「好奇心」が先立ちますよね。
好奇心がない事柄に対し、人は傍観的になり、理由を知りたいと思わないでしょう。
では、好奇心とはどこから生まれるのでしょうか?
論理的に考えるため、「なぜ」を生みだすための好奇心。
それは「情熱」から生まれます。
私の持論では、情熱とは継続的に「やりたい」と思う感情を指します。
今回は情熱はどこから生まれるのか?
情熱的になれない理由について書きたいと思います。
勘の良い皆さんならもうお気づきかもしれませんね。
キーワードは「やりたい」という感情です。
前述している通り、情熱とは継続的に「やりたい」と思う感情。
やりたくないことを情熱的にできることはあるでしょうか?
やりたいことしか人は情熱的にできませんよね。
例えば、やりたくないと思っていることや他人に押し付けられたことを考えてみてください。
人は「やらされていること」を行う時、「求められていること」以上の
パフォーマンスをだすことは難しく、情熱的に働き、クリエイティブな状態にはなりずらいのです。
反対に、「やりたいとおもっていること」をする時、
自ら主体的かつ情熱的にアイディアを出して仕事をできる状態になります。
その理由は自ら設定した目標と現実を埋める「なぜ」に答える、
地に足が付いた(論理的に次の行動を導き出せる)状態だからです。
それでは、「やりたい」「やりたくない」という気持ちはどこからくるのでしょう?
人は判断の95%を無意識下で行っていると言われているように、
人が「やるか」「やらないか」を判断をするとき、殆ど無意識的に
「すき」か「きらい」かに基づいて次の行動の選択しています。
次回は、「すき」と「きらい」はどこからやってくるのか?
について書きたいと思います。
【すきときらいはどこからやってくるのか】
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