リーホー(ニーハオの台湾バージョン)!Kunyです
今回は、台中の有名スポット宮原眼科をご紹介します。
宮原眼科は台中駅から徒歩3分の場所にありアクセスも良好です。
世界中のインスタグラマーが集まる映えスポット
宮原眼科へ入店すると、ハリーポッターの世界に迷い込んだような気持になります。
4階建ての建物は1階から4階までが吹き抜けになっており、本棚が4階までそびえています。
1階にはお土産物が売られており、写真を撮りに集まる観光客を迎え入れています。
台湾国内でも屈指のインスタ映えスポットともあり、国内外から人々が集まっています。
台湾人の観光客もたくさん来店しており、平日でも多くの人でにぎわっていました。
宮原眼科はスイーツやアイスクリームが有名
宮原眼科の人気商品はアイスクリームで、開店前から人々が並びます。
ミルクやストロベリー、パイナップルなど豊富なメニューが取りそろえられています。
パイナップルケーキが有名な日出グループが運営しており、たくさんの種類のスイーツがあります。
宮原チョコレートや宮原ミルクティなど、インスタと台湾グルメ両方を楽しめるスポットですね。
2階より上は豪華台湾料理を提供する「酔月楼」
宮原眼科には、上層階へ続くダイナミックな西洋式階段があります。
階段を上り、2階には少人数でも食事ができるレストランがあります。
4階は中国式の円卓が3つのみある、特別な会場となっています。
こちらはミシュランに選ばれる高級台湾レストランです。
12名が掛けられる円卓には綺麗なお花とテーブルセットが用意されていました。
全て漢字ではありますが、本日のコースメニューが書かれた紙がそれぞれの席に置かれています。
多くの美食が提供されて、撮影が間に合わなかったのですがその一部を紹介します。
まず初めに、とても薫り高いキンモクセイのお茶。
右上はイカのすり身を揚げたイカ団子です。
その他、肉やサーモンの創作料理が提供されました。
料理を取り分けてもらいました。
左に見える食べ物が絶品で、日本でもどこかで食べられないかと願っています。
中にナッツが入っているソーセージをお酒に漬けたもので、さわやかな酸味と食感がある食べ物でした。
アワビの前菜です。
台湾料理でもアワビは珍重されています。
前菜で豪華なアワビを頂きました。
こちらは、チキンを蒸した料理ですが、一般的な養鶏場で育てた鶏ではありません。
広い牧草地で放し飼いにして育てた特別な鶏肉を使ったスチームチキンです。
少しライムの香りも漂う、ひと工夫もふた工夫もされている逸品でした。
壺の中に入っているのは、卵と豚肉を煮た料理です。
今回の台湾の旅でルーローハンの美味しさにほれ込んでしまったのですが、ルーローハンは豚肉そぼろをご飯に乗せる料理ですね。
しかし、この豚肉はそぼろにしていないルーローの部分を時間をかけて煮込んだものです。
甘じょっぱさに八角や五香粉など香辛料が追加された絶品です。
ルーロー....?という呼び方が適切かはさておき、小皿にルーローを取ります。
ルーローを挟むために用意された小さなもちもちパンにルーローを挟みます。
ルーローパンは少し大きいので2口で食べました。
宮原眼科の上層階、酔月楼では創意工夫された豪華台湾グルメを楽しむことができます。
魚とスープですが、こちらも工夫が込められたものですが...料理の説明を忘れてしまいました🙏
12品のコース料理全て、捻りが利いている絶品の数々でした。
食後にはアフタヌーンティーのように飾られたフルーツを串に刺したものが提供されました。
こちらが宮原眼科の人気メニュー、パイナップルアイスクリームです。
ちょうちょのワッフルが上に添えられていて、見た目もかわいらしいですね♪
なぜ「宮原眼科」という名前なのか?日本と台湾の歴史に深い理由
宮原眼科はもともと鹿児島県出身の眼科医、日本統治時代の台湾の政治家である宮原武熊氏が建てたクリニックでした。
宮原氏は1927年にレンガ建ての洋館を建設し眼科専門の宮原醫院を開業しました。
1933年には収容人数100名、24の病室を構える市内最大の医療機関となりました。
(当時私立病院の平均収容人数は46名だったので、平均の倍を上回る規模です)
宮原氏について調べてみると、明治から昭和にかけた壮絶な人生と国際的な人々への貢献に心を動かされます。
宮原武熊氏の経歴
- 1874年 鹿児島県で生まれる
- 1900年 愛知医学校卒業(現・名古屋大学)
- 1901年 東京帝国大学医科大学選科修了、眼科医院開業
- 1904年 ドイツ留学
- 1906年 ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンで医学博士号
- 1907年 ウィーン大学とベルリン大学で眼科学専攻
- 1908年 鹿児島市に眼科医院開業
- 1918年 東京帝国大学伝染病研究所で眼科細菌学を研究
- 1923年 帝国大学医学博士号取得、東京市で眼科専門医院開業
- 1925年 台湾総督府医院、台南医院で眼科部長、院長に就任
- 1927年 台中市栄町に民間開業医として宮原眼科を開業
- 1933年 台湾人による台湾自治を目指す「東亜共栄協会」を設立(一時は会員1万人を超える)
- 1936年 日本の右翼団体の圧力により「東亜共栄協会」を解散、台中州の評議員となる
- 1945年 台中州私立台中商業専修学校で2代目校長に就任
- 1945年 台湾から引き揚げ、戦後日本で消息不明となる
第二次世界大戦が終わり、宮原氏が台湾から日本へ引き揚げる前の1946年に林献堂は、宮原氏が73歳と高齢であったこと、戦前の台湾社会へ貢献してきたことから寛大な処置を請願する手紙を蒋介石に送ったそうです。
林献堂は日本統治時代の台湾の民族運動指導者であり台湾議会の父と称される人物です。
宮原眼科のその後
1945年に台湾政府が宮川眼科の建物を接収、のちの台中市衛生院が使用しました。
1959年に衛生院は新庁舎に移転し、建物は張瑞楨という人物(台湾の女優の祖父)に譲渡されました。
その後、1999年に大地震で被災、2008年に台風カルマエギの豪雨で再度被災しました。
被災と復興を繰り返しながら、動画内で解説がある通り台湾政府が日本政府に呼びかけて宮原眼科は今の姿を現代に残しています。
台湾グルメとインスタ映えスポットとして大人気の宮原眼科の歴史を紐解くと、宮原氏の台湾社会への貢献、台湾と日本の絆が見えてきます。
歴史とともに訪れると、より心に残る体験が宮原眼科で待っています♪
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