【キューバ】チェ・ゲバラが革命をもたらした国へ
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こんにちは!体験型海外レポートを書いているKunyです。

私は東南アジアでの体験を中心に記事を書いていますが、
アジア以外の地域を取り上げてほしいというリクエストがあったので、
これから数回にわたり中南米にフォーカスするつもりです。

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突然ですが、あなたの尊敬する人は誰ですか?

 

 

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私の尊敬する人たちの一人は、この男です。
男の名前は、エルネスト・ゲバラ(1928-1967)。

 

言わずとしれた、フィデル・カストロ(1926-2008)とキューバ革命を指導した指導者です。

 

 

ジョン・レノンは言います。
『1960年頃、世界で一番かっこいい男がチェ・ゲバラだった』

 

 

サルトルは言います。
『チェ・ゲバラは20世紀で最も完璧な人間だ』

 

 

「チェ」とはゲバラのあだ名。ウルグアイやパラグアイで使われている
スペイン語で「やあ」、「おい」と言った気さくな呼びかけを意味します。

 

ゲバラは初対面の相手に「チェ、エルネスト・ゲバラだ。」と言っていたことから、
「チェ」という挨拶が面白がられあだ名になったそうです。

 

彼はチェスが大好きな人で、後にキューバにチェス・オリンピックを誘致し当時、
自身が一流のチェスプレイヤーとして参加したこともあるようです。

 

彼は毎日、日記を書いていました。
そして日記の最後に「今日は○○の誕生日」と、
必ず仲間の名前を書き残す、とても仲間思いの人物でした。

 

 

ゲバラは生涯、毎日書き記した日記を残しているので現在でも多くの文献、書物があり
彼が無き後でも彼という人物象を知ることができます。

 


そのような彼の残されたエピソードから抽出し、彼の物語を短く説明したいと思います。

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アルゼンチンの比較的裕福な家庭に生まれた彼は、病弱で喘息を患っていました。
喘息に苦しめられながらも、勤勉だった彼はブエノスアイレス医科大学へ進学。

 

その後、医師免許を取得します。
彼が23歳のときにボロボロのオートバイで南米放浪の旅を経験し、

 

 

貧困層の労働者やハンセン病患者と出会い、少数民族が不当な弾圧を受けていることを知りました。

このころ、ゲバラの人生観は貧困層を目の当たりにしたことによって大きく舵切りをすることになります。

 

ゲバラの青年時代の放浪旅行は映画『モーターサイクル・ダイヤリーズ』で見ることができます。

 

ゲバラは当時、南米での貧富の差に矛盾を感じ、自分の生涯を考えました。

 

その頃私は医者としての個人的成功を夢見ていた。しかしこの旅を通じて考えが変化した。飢えや貧困を救うには注射だけでは不十分だ。社会の構造そのものを変革せねば。病人の治療より重要なことは、病人を出さないことだ

 

と、彼は後に言葉を残しています。

 

 

1955年、ゲバラはグアテマラ政府軍の一員として戦うも敗北、メキシコへ脱出しました。メキシコで反体制派キューバのリーダーかつ青年弁護士であったフィデル・カストロと運命的に出会います。カストロも当時、反政府運動に参加していましたが、激しい弾圧を受けてメキシコに潜伏していました。

その頃、キューバはアメリカの経済的搾取の対象であり、電力や電話、鉄道さえアメリカが利権を所有していました。また、キューバの官僚はバティスタ独裁政権下にあり、アメリカに媚びるバティスタとアメリカ企業は癒着し、首都ハバナはアメリカのマフィアの巣窟そのもの。キューバの政治は腐敗していました。

そのような時代的背景の中、アメリカのユナイテッド・フルーツ社の搾取から経済的独立を志向していたカストロ率いる反バティスタ武装ゲリラ闘争にゲバラは参加。カストロとゲバラ、82人の同士は密航船グランマ号という小さな船に乗り込み、バティスタ独裁政権を打倒すべくキューバに上陸しました。ゲバラ28歳の時です。
しかしながら、キューバ上陸作戦の情報は政府軍に漏洩しており、
カストロ率いる革命軍は奇襲され82名いた同士のうち17名のみが生き残りました。

 

 

2万人のバティスタ政府軍対、反政府革命軍たった17名・・・。

 

ゲリラ闘争の壮絶なストーリーは大変スリリングなのですが、
長文を避けるためこの記事では割愛させて頂きます。

是非、興味のある方はご自分で本を手に取ってみてください。

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さて、ゲバラが21世紀でも世界的に愛される理由はいったい何でしょうか?
理由はいくつか彼の有名なエピソードが物語っていると思います。

例えば、ゲバラは戦闘が終わると、敵の負傷兵にまで必ず治療を施していたこと、
彼は決して捕虜を殺さなかったこと。

 

あるいは、彼は葉巻が好きでした。生まれつき喘息を患っていたのにも関わらず愛煙家であった理由はキューバの特産である葉巻をプロモーションするためだったと言われています。
このようなゲバラの評判はすぐにキューバ全土に広がり、キューバ国民の支持を得ただけではなく、政府軍の軍人さえ反政府ゲリラの仲間に入るものが現われました。

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ゲバラ30歳、カストロ31歳。若者たちがキューバに革命政府を樹立させました。
彼らが行ったことは、識字率を向上させるため教育の無償化、医療の無料化。

 

そして不平等にも少数の大地主が所有していた土地を、国有化するなど政策を進めて行きました。さらに、ゲバラが国立銀行総裁になって初めに行ったことは自分の給料を半分以下にカットしたことです。

 

その後も、銀行総裁でありながら暇さえあればパフォーマンスではなく建設現場や紡績工場、サトウキビ畑で日常的に労働をするなど他に類を見ない活動をゲバラは実行してきました。
一方、バティスタ政権から賄賂を得ていたアメリカはキューバからブックマネーを搾取できなくなり、カストロ率いる革命政府へ恨みを募らせます。

 

そこで、CIAを送り込み爆弾テロなどの方法でカストロ、ゲバラを暗殺しようと試みました。しかし、アメリカの破壊工作に激怒したカストロはソ連と協力し、キューバの核武装を踏み切りました。

 

これがアメリカをパニックに陥れたキューバ危機の理由です。

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ゲバラは自身を冒険的革命家と自称しています。

 

彼は、キューバでの役目は終わったと言葉を残し、
国家の用人である全ての地位を捨てアフリカで戦った後、ボリビアへ向かいました。

 

39歳、ゲバラはその若さでCIAに指揮されていたボリビア軍に捉えられ
その壮絶な一生を終えました。


 

 

「世界には、私のささやかな力を求める国がある」
(1965年、フィデル・カストロに宛てた最後の手紙より)

 

世界のどこかで誰かに対してある不正が犯されたなら、
それがどんな不正であっても、いつもそのことを心から
悲しむことのできる人になりなさい。

(1965年、5人の子供たちに宛てた最後の手紙より)

 

 

いくつも彼は素敵な言葉を残しています。
私は昨年、彼が革命を主導した国家を見る為にキューバへ行ってきました!

 

 

次回から数回にわたりキューバでの体験を伝えたいと思います!

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